「時間とは何か」
「時間とは何か」ということを聞かれたとき、その質問に答えるのは難しい。「時間」という単語を辞書で探せば、答えはある程度見つかるものであるが、どの答えも時間の本質、根本的なものを掴んだものはない。辞書にあるのは表面的な、大まかな答えである。
そこで、昔の哲学者達はその答えを究明すべく、独自の持論を以って時間というものを定義してきたのである。そして、その各々の定義に当てはめたものが、すなわち「形式としての時間」なのである。
哲学者達は「時間」を直線、円、振り子などの形式に当てはめることで時間の本質というものを掴もうと試みた。しかしそこは当然他者の意見との食い違い、矛盾が生じたのである。
今回私が述べようとしているのは「形式としての時間」で、その中でも「線としての時間」である。数々の哲学者達が独自の形式(枠組み)を以って、どのように時間というものを定義してきたのかをまとめたい。
まず「時間」というものを考えていく前に、カントの定義を念頭に置いて考えなければならない。彼の定義とは、「空間と時間は純粋直観である」ということである。つまり、私達が時間や空間を述べるとき、必ず経験的直観が先行する。すなわちその経験に基づいて時間を述べてしまうのである。逆に言うと、それだけしか出来ないのである。
何事にも経験に基づいた枠組みがなければ定義することは出来ない。これらのことを踏まえて、次はそれぞれ異なった枠組みで時間を捉えてみた時、時間というものはどのように定義されるかを述べる。
「線」といっても、それが直線であったり、半直線であったり、線分であったりと様々である。そしてそれらは地域によって反映されている場合もある。
では、まずは時間の枠組みを「直線」として述べていく。ここで参考になるのがガリレオの考えと、ニュートンの考えである。ガリレオの考えというものは「相対時間」であり、<今?ここで?私が>という、「私」の主観によって捉えたものである。当然主観というものは人により様々であるから、時間の感じ方もそれぞれ異なる。
例えば、1時間は1時間でも、楽しい時間は早く感じたりすることがある。すなわち心理的時間による相対時間である。また、電車の中で座っている人物を電車の中から見た時、一見その人物は動いていないように見える。しかし、見る立ち位置を変え、電車の外からその人物を見たとき、その人物は丁度電車が走る同じ速度で移動しているように見える。この様に、ある対象を見る場合、その捉え方は立場によって違ってくるのである。即ち、観測者の時間による相対時間である。
これらの点を踏まえると、ガリレオが定義した時間というものは、それを感じ取る人によって、それぞれ捉え方が違うということだと言える。つまり、定まった長さは必ず存在しないということである。
一方、この考えに対して、ニュートンの考えというものは「絶対時間」である。それは<いつでも?どこでも?だれでも>という普遍性を持った捉え方である。
この捉え方はその言葉通り、時間は絶対的なもので、不動の存在なのであるということである。例えば、楽しい時間であろうと、つらい時間であろうと、1時間は1時間であるという捉え方である。即ち、先述した心理的時間は無視して考えるのである。ガリレオとニュートン、二人の考え方、捉え方には時間を「直線」として捉えたという共通点があるが、両者は正反対のものである。
では、次に時間の枠組みを「半直線」として述べる。この半直線には2種類がある。一つは<始まりがあって、終わりがない>というものであり、もう一つは<始まりがなく、終わりがある>というものである。
では、まず前者について述べる。この考え方は古代の神話にみられる。それは、始めに何かきっかけがあり、そこから国が出来たというものである。
日本の国生み神話もまさにこれと同じで、「全ての生命は母体(母親)から生まれる」という母性原理が強く働いた神話である。
では、もう一方の後者ではどうか。この考え方は北欧神話にみられる。その中によく見られるのが、「いつからかは知らないが、とりあえずずっと前から存在する世界樹」があるということである。その樹を中心に話は広がっていくのだが、ある時その樹が死ぬことでその物語も幕を閉じる。これから窺えるのは、始まりは見えないが、必ず死を以って終わりとなるということである。この両者も世界の神話によって明確に分かれている概念であろう。
では最後に時間の枠組みを「線分」として述べる。線分というのは、両端が設定された直線である。したがって時間を線分で表す時は、必ず始まりのきっかけを設定し、そして何がどの様に完結するのかを設定しなければならない。
アジアの考え方としては、「無限から無限へ、その間を私達が生きている」というものがそうである。それに対して、ヨーロッパの思想は何かにつけて始まりと終わりを考える。時間の流れより前に、まず始まりと終わりを設定するのである。この考えを基に「創世記」は作られたのである。
しかし、これにはいささかおかしな点がある。「創世記」では「無」からの誕生を描いてあるのだが、それは本当の「無」ではないと私は考えている。本当の「無」、即ち虚無から何かが生まれるわけはないのである。誕生には必ず何かのきっかけが必要で、たとえそれが「無」であったとしても、それで理屈を通すのには無理がある。きっかけを辿れば必ず何かあるのだというのが私の意見である。
以上が「線の時間」に対して私がまとめたものである。「時間」というものは、普段私達はあまり気にも留めていない。と言うのも、そこに時間があるのが当然であると考えているから、あまり深く込み入ってその本質を探ろうとはしないのであろう。
しかし、だからこそいざ時間の本質を聞かれたとき、何時かは答えることが出来るが、時間そのものを答えることが出来ないのである。
今まで数々の偉人達がこの究明に励んできたのだが、私は誰にも究明できるものではないのだと考えている。今回のように定義づけて説明を施しても、所詮は付け焼刃であり、定義が変わればその本質は大きく違ってくるからである。
ご意見・ご感想お待ちしております。
ブログ , 学問肌記事一覧. 4 comments
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HP50 MP2 ホイミすらかけれないので明日ゆっくり「時間」みます(=゜ω゜)ノ
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>たくさん
え、薬草もあるし、いのりのゆびわもあるのに???
まぁしかたないから、今日は故郷のアリアハンでゆっくりおやすみ^?^
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時間の解明も哲学をはじめ、物理学などいろいろなアプローチの仕方がありますね。個人的には、解明することよりも、それがわからないながらも費消することを選んでいます。持ち時間は限られていますので。
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>sentemさん
普通は誰しもそうだと思います。
解明したところで、何かが変わるとも思えませんし、今まで通り時間は消費していくだろうと思いますね。