「言葉」に対する自分の考え
「キリスト教に於いて、「言葉」というものは、まず何よりも先行するもので、何よりもまずモノが先行する内在論的思考様式の仏教と、この超越論的思考様式のキリスト教とは一線を画している。」
今回はこの思想に基づき、キリスト教における「言葉」の絶対さ、「神」と「言葉」の関係について私自身の率直な考えを述べたいと思う。
――初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(『ヨハネによる福音書』の冒頭部分)―― このことから、キリスト教における「言葉」というものは、神とともにあったもので、即ち「言葉」とは「神」なのであるということが分かる。
しかし、私はこの一節に疑問を感じる。それは、「言葉」と「神」があったとして、なぜ「言葉」=「神」という方程式が成り立つのであろうかということである。そこで私は、「言葉」が絶対的な神なのではなく、神の発した「言葉」こそが絶対なのであると考える。つまり、「言葉」は例え誰が発しようとも「言葉」であり、絶対的な存在、偉大な存在とされてきた神が発したからこそ、その「言葉」は絶対的な力を帯びたのである。また、神を越える存在は無いということから、神以外の者が唱えたところで、何も帯びはしないということがわかる。しかし発しているのは紛れも無い「言葉」なのである。こういう訳で「言葉」=「神」という方程式は到底成立しないのである。
「創世記」の天地創造では、神が初めに「光あれ」と言うと「光」が生まれたという。しかし、『ヨハネによる福音書』の冒頭部分は「初めに、言葉があった。――」となっている。「言葉」が先に存在したと唱えているが、この天地創造では「神」が既に存在しており、神が最初に「光あれ」と唱えた時、初めて「言葉」が生まれたのだ。
この考えは『ヨハネによる福音書』に書かれていることをベースにしているが、『創世記』をベースにしたとしても同じ様な矛盾に直面する。それは、神による「言葉」によって生まれるというのなら、神はどのようにして生まれたのであろうかということである。「神は全てを超越した絶対的な存在であるから、神は言葉自体が誕生する前からそこにあったのだ。」この様に説明付けをしたとしても、先にモノ(この場合では神)が存在したということで、超越論的思考様式ではなく、むしろ仏教の内在論的思考様式が当てはまってしまうのである。何故なら、誰も「神」とは唱えていないからである。
キリスト教に於いて、神は絶対的な存在、偉大な存在である。また、神は目に見えず、男でも女でもなく、親でも子でもない。そもそも特定することは出来ないのである。しかし神は存在する。それが例え偶像だったとしても、そこに存在する以上、名前が付加される。現にキリスト教に於いても神を「神」としている。これは神を特定していることにはならないのだろうか。こういう訳で、私は『詩経』が謳う「天は多くの人を生み出したが、ものがあれば、そこには、それがあるだけの理由もある」という考え方の方が理に適っていると考える。
ナポレオン・ヒルが唱えた「Think and grow rich:思考は現実化する」という言葉があるが、私はこの言葉に感銘を受けた。まず心の中で唱え、次に口に出して唱えていけば現実化するという考え方であるが、この考え方と、神の唱える「言葉」は同じと言えずともどこか似た感じがある。「言葉」が「神」とまではいかずとも、この日常使っている「言葉」には何か不思議な力が働いているのではないかと考える。それこそ目に見えず、何なのかさえも分からない、まさに不特定な力(神の働き)なのかもしれない。
ご意見・ご感想お待ちしております。
ブログ , 学問肌記事一覧. 6 comments
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余計に混乱…
神の存在を中心に考えると、言葉の存在はなんなのか…
言葉の存在を中心に考えると、神の発した言葉とは…
理解するまでに時間かかります…
理解出来るのか?
理解しちゃいけないのか?
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いくつかの福音書が存在してるけど、どれもイエスの弟子が書いたもので、イエスは何も書き残していないんですよね。そうすると、それぞれの弟子の主観が入ってくるから齟齬が発生するのは必定かも。また我々は日本語訳で聖書を読んでいるがその翻訳の過程でも何かズレがあったとしたらさらに複雑になってしまうかもしんないすね。
結果、う?んどうなんだろ。
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キリスト教では三位一体の考えがありますよね。父と子と聖霊が三位一体。別のものに見えるこの3つが実は本質的には同じものであると説いていますよね。
それと似たような感じなのかなってちょっと思いました。言葉と神は全く異質なものに見えて、実は本質的には同じと考えられているのではないかな。。。
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>たくさん
そこが矛盾点なんですよね。丁度“鶏と卵の理論”ですよ。鶏は卵から産まれますが、ではどうやって鶏はその存在を“始めた”のか。
何かが生まれる為には必ず何らかの理由やきっかけが必要なのです。
難しい問題ですね?
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>李明さん
間違いなく翻訳の際の間違いはあると思います。
天地創造では「神」が先行し、福音書では「言葉」が先行していましたが、これらは別物と考えたほうがいいのかもしれませんね。
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>ごはんさん
そうとなれば、『ヨハネによる福音書』の冒頭部分の「ことばは神であった」という一節にも納得がいきますね。